日記

 

・時々ふと、人っていつか必ず死ぬんだよなぁと考える。
自分の家族は健在だし、祖父も祖母も80近いが今も元気そう。
でもいつか必ず、恐らく僕が重大な病気か事故にでも合わない限り先に死んでしまう。
自分が人生で葬式に出たことがあるのは一度だけ。父方の祖母のお葬式だったが、小学生というのもあったしあまりいい思い出も無かったので特に悲しいという気持ちもなく当時は「あぁ、こういう感じなんだなぁ」程度に死を感じていた。
だが、大人になってになって身近な人間の死を考えると相当な悲しみとツラさがあると感じる。
何より一番怖いのは、必ずその悲しみやツラさがいつか自分に訪れること。
生きている限りこれは必ず避けて通ることはできないということ。
そして、もし自分が結婚をして子供を作ったとしたら、その悲しみを子供に受け継がせてしまうこと。
人は人と出会い人と別れていくが、そう考えると人は本当に悲しい生き物だなぁと思う。
何のために出会って、どうして別れなければならないのか。
こんな悲しみを背負うくらいならば、生まれなければよかったのに、とさえ思う。

 

そしてもう一つ、自分の死も恐ろしい。
自分が死んだとき、一体どうなるのか。
いつか必ずその答えにたどり着いてしまうのが一番恐ろしいのかもしれない。
ただ、やはり自分の死と他人の死を比べると辛くて悲しいのは他人の死だろうね。
じゃあどうしたらいいかっていったら、やっぱり悔いなく思い出を作ることなんだろう。
自分が死んだときは、お通夜やお葬式なんかやらなくていいから偲んでくれる人が居れば集まってご飯でも食べて思い出話で笑ってくれたらいいなぁと思う。

 

 

幽霊や輪廻っていう考え方は、もしかしたら遺された人たちのための考え方なのかもしれないなぁって思う。
いつかまたどこかで会えるかもってね。

 

 

僕の好きな歌

聞くと必ず泣いちゃう

元は本当にあった!霊媒先生っていうアニメのEDなんだけど、この動画が凄くマッチしてるからこれで

youtu.be

 

プロ

どの世界にもプロがいる。
僕がよくやるゲーム、league of legends(LoL)というゲームにもプロと呼ばれる人たちは存在する。
LoLではtierと呼ばれる階級制度があり、プレイヤーの腕に応じてその階級が振り分けられ、下はブロンズから最高はチャレンジャーまである。
そして、チャレンジャーこそがこのゲームにおける神、所謂プロだ。
たかがゲームでしょ?それでプロって(笑)と思うかもしれない。
しかし、LoLは全世界で最も人気があるオンラインゲームだといっても過言ではない。
故に総人口は約一千万人にも及ぶ。
果たしてその中でチャレンジャーになれる人間は何人か?
なんと0,02%。わずか2000人しかなれない。しかも韓国や北アメリカなどサーバーが10個ほど分けられており、各サーバーでは200人程度(おおよそ200人固定)しかチャレンジャーになることができない。
つまり、チャレンジャーは紛うこと無き本物の天才なのだ。

さて、この天才にも二種類いる。
一つはLoLを初めてたった数ヶ月でチャレンジャーに上り詰めてしまう才能と素質を兼ね備えた本物の天才。
一つはLoLを初めて何年も何年も何戦何十戦何千戦と負け、時間をかけてチャレンジャーまで上り詰める天才。
恐らくほとんどのチャレンジャーが後者だと思う。
負けて学び、勝って学び、時間をかけて頂点まで上り詰める。

僕ははこの後者に学ぶことがあると思う。
時間をかければ誰だってチャレンジャーになれるじゃん(笑)と思うかもしれない。だが、本当にそうだろうか。
大抵の人は時間をかける前に諦めてしまうのではないだろうか?
どうせ俺なんかやったってプロになんかなれねーとか、こんなんやったって無駄だわ(笑)とか、挑戦もせずに諦めてしまうのではないだろうか。
そこが違う。プロは一つのことをとことんやり遂げて0,0何%という狭き門を突破した。ということはプロは本物の努力の天才なのだ。
たかがゲーム、されどゲーム。たかがゲームですら一生懸命になれず頂点をも目指せないのなら、その他で何のプロを目指せよう?
だから僕は就活の前にプロフェッショナルにならねばならぬのだ。
だから僕はチャレンジャーを目指すのだ。LoLの頂点を目指すのだ。

 


ちなみに僕のtierはシルバー3
多分10年かかっても無理です。下の下の下です。死にたい。

悪事

・前にブログで「人間の幸運は限度が決まってる~」的なことを書いた気がするが、ふと今日バイト中に似たようなことを思ったので書こうと思う。

 

・生きていると良いこともあれば悪いことがある。とは人間誰しも思ったことはあるだろう。どんな些細なことでも大きなことでも、ずっと幸運が続くことはほとんど無いしその逆もまた無い。

なぜか?それは幸運と不運は常に一定のバランスが保たれていると考えることはできないだろうか。個人基準ではなく世界全体で不運と幸運を見たとき、MAX不運状態を0,MAX幸運状態を100とするならば、必ず中間点の50になるように世界は動く。

そもそも幸運は単体としては成り立たない。誰かの不運の上に幸運は成り立つ。

良く考えてみれば生活のすべてにおいてそう言える。

大きなことを言ってしまえば例えば僕が100万円拾ってネコババしたとき、落とした人間は不幸であるが僕はその不幸の上に100万円を手に入れたという幸運を手に入れる。

他に例えればギャンブル。全員が全員勝ってしまったらギャンブルとして成り立たたず、ただの慈善事業で金を配ることになってしまう。負ける大多数の人間が居て初めて勝つ人間が生まれる。

例えば受験。合格者は一定数と決まっているのだから、不合格になる人間が居てその上に合格者が生まれる。

例えばドナー死後の臓器移植手術。ドナーの遺族は悲しむことになるが、レシピエントとその家族は喜ぶことになる。

あくまでも一例に過ぎないが、上に見る限り人間は誰かの溜息・涙・絶望の上に幸福・幸運を享受する。これらの例に見ると、誰かの悲しみが世界の運基準値50を-にし、その埋め合わせのために運基準値を50に戻すために+の幸運を享受する。

つまり、先に挙げた世界の運を50の基準値とする考え方ならば、もし一時的に基準値の50を下回った時は当然幸運でその埋め合わせをしなければならないし、もし一時的に基準値の50を上回った時には当然に不運で幸運を削らなければならない。

 

そう考えると、当然疑問が湧く。良いことをすればいずれ自分に返ってくるという考え方は間違いなのではないか?と。

例えば駅の階段で上れずに困っているおばあさんが居た場合、二つのパターンを考える。Aのパターンはおばあさんを助けるがBのパターンはおばあさんを助けないパターン。Aの場合、助けられたおばあさんは幸運を享受したことになり、どんなに少なくても当然に基準値50に+の影響を与える。だが逆にBの場合で仮に階段を上り切れず落っこちて死んでしまったとする。運が悪かった。それはつまり基準値50に-の影響を与える。

AとBの2パターンを見たとき倫理的に当然にするべきなのはAだろうが、自分が幸運を享受するためならばBを選択するべきだ。何故ならおばあさんが不運になった分だけ埋め合わせのために幸運がどこかの誰かに起こるからだ。

言ってしまえば悪いことを率先して行い、涙する不運な人間をたくさん作った方が幸運が舞い込んでくるのではないだろうかという考えだ。

実際、ズルをしたり悪いことをしている奴のほうが幸運を享受し、馬鹿正直に生きる馬鹿が泣きを見るのが世界の理だと思う。ズルをし、悪事を働き泣く人間を作れば作るほど幸運基準に-の影響を与え、その-を+にするために埋め合わせの幸運を手に入れる。馬鹿正直な人間は幸運な笑う人間を増やし、幸運基準に+の影響を与え、結局その+を-にするために不運を手にする。

馬鹿正直な人間が最後に笑うのはお伽話の世界だ。情けは人の為ならずとは良くいうが、自分に跳ね返ってくるのは何も良いことだけではない。

 

世界中の存在全てが幸運にならないのは、この基準値があるからだと思う。

だが逆に、世界中の存在全てが不運にならないこともこの基準値のおかげなのかもしれない。

幸福管理事務局とか絶対ありそうだよね。

そんなオカルトありえませんってか。

 

youtu.be

怪談新耳袋という短編ホラーがある。一話5分程度で怖いものから不気味なもの、笑える怖い話まで色々ある。

そんな新耳袋に出てくる心霊スポットに行こうというのが僕が大好きな「新耳袋殴り込み」だ。

お札、数珠、お守りを一切持たず心霊スポットで不謹慎な挑発を行い幽霊の音声や姿を撮るというのがコンセプトのこの殴り込み。これが相当面白い。たまーにテレビでやってるケチなフェイク映像なんかの非ではなくて、まさに「本物(だと思う)」が映っているからだ。本物が映るのも無理はなく、殴り込み魔界編では沖縄の黎明之塔の大戦で追い詰められて無くなった方の遺骨が納められているガマで「お化け出てこい!」と叫び100数えて出てくるというミッションで設置された定点カメラに明らかな怒りの男の叫び声が収められていたりする。他にも、八甲田山で軍服を着て雪の進軍を歌ったり、山梨の花魁淵で遊女の格好をしてロープに括り付けた日本人形を橋からバンジーさせたり、不謹慎かつ馬鹿馬鹿しくて本当に面白い。いたずらも多く、トンネル内を三輪車で往復するというミッション中に中間地点に差し掛かったところでロケット花火を打ち込んだり、一応ホラーを見ているはずなのに常に笑いが止まらない。

それにしても、幽霊の姿はテレビでやってる心霊番組の投稿映像みたいにハッキリ映るもんじゃないと思う。そんな簡単にハッキリくっきり映ってたら殴り込みのメンバーはあんなに苦労しない。殴り込みであれだけ罵倒挑発して幽霊の姿がハッキリと映ったことは一度たりともないしね。

youtubeでも見れるのでぜひ見てほしい、本当に面白い。

youtu.be

 

できればDVDを買って見てほしい、ついでに書籍も出てて面白いです。

 

ラムネ

・僕はお菓子が好きだ。お菓子が好きだからお菓子を専門に売ってる店でバイトをしているくらいだ。だがお菓子全般というよりかは駄菓子全般が好きで、特にラムネ系やグミ系の駄菓子が好きだ。中でも特に一番好きなのがカバヤジューCラムネで細長い筒に入っている商品よりこっちのタイプが好きだ。

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さて、この商品を食べたことがある人は分かるかもしれないがカラーボールは上についてる蓋を開け穴からラムネを取り出して食べる形の入れ物になっている。この穴はちょうど子供の人差し指がすっぽりと入る程度の穴だ。もう気づいた人もいるかもしれないが、僕は小学生の時この穴に指を入れて抜けなくなって消防署まで行った過去がある。

 

小学4年生くらいの夏の日、暑い中放置しておいたラムネは容器の中でラムネ同士がくっつき更にそれが容器にしっかりくっつきと取りづらくなるときがある。どんなに容器を叩いても振ってもラムネは出てこない。大人になってしまえばたかが60円のお菓子の残り数粒にそこまで固執することもないが、当時のお小遣いは400円程度でラムネ一粒でもとても大切なものだった。当然意地汚い僕は何とかして中のラムネ取ろうと考え指を入れて取ろうと試みた。しかし、容器の底についたラムネに子供のとはいえ人差し指が届くはずもなく、意地汚い心で深く思い切り突っ込んだ指は第二関節に引っかかって抜けなくなった。

最初は笑っていた。抜けなくなった指輪を外すために石鹸水で滑りを良くして取るなどの方法をテレビ番組の世界丸見えなどで見てたので、自分も石鹸水で取ろうと試みた。本当にこんなことあるんだなぁ程度で石鹸水を塗りたくり、石鹸水も付いちゃったしラムネのことは諦めるか~程度に指を抜こうとした。抜けない。どんなに石鹸を増やしても抜けない。おかしい、テレビでは簡単に取れてるはずなのに抜けない。

台所で必死に何かをする子供の様子に気づいた母親が、「あんた何やってるのよ~」と笑いながら近づいてきた。僕は半分涙目になりながらラムネが入ったプラスティックの指人形がくっついた人差し指を見せた。母は「あんた何やってんの!!!!」と烈火の如く怒り出し、ハサミやペンチで切ろうとしたが割と丈夫な容器は壊れなかった。いよいよ打つ手がなくなり、もうこのまま終りかと思ったとき見ていた父親がさらに追い打ちをかけた。「おまえ、これはもう指を切るしかないよ。これから4本指だな。」と。今でも忘れない。それを聞いた瞬間涙が止まらなかった。こんなくだらないことで指が一本なくなるのかと情けなかった。

「くだらないこと言ってるんじゃないよ、早く消防署行くよ」と母親に連れられ放心状態のまま消防署に自転車を漕いで向かった。途中友達に会い、「よぉ!どこ行くの!?」と聞かれたが「うん…ちょっと…」としか答えられず、もはや自分の指がなくなることしか頭になかった。

 

消防署に着き、階段を上がり消防隊員が居る部屋に入った。屈強そうな男3人がミーティングをしていたが、涙を流しながら入ってくる子供を見て「どうしました!?」と駆け寄ってきた。実は…と母が経緯を説明し、あぁ、それなら指輪を切るやつで切りましょうと事が進み、「お母さん、大丈夫だとは思いますが一応こちらに承諾書を…」と本来指輪を切るための器具のため、指輪を切ることに同意する同意書をわざわざラムネの容器のために書き、見事消防隊員の人のおかげで3,4時間付き合った容器とさよならをすることができた。容器は強く指に食い込んでいたため、人差し指は血が止まり明らかに他の指と大きさが違っていた。

あの時ほど消防の人がカッコよく見えたことはなかった。それがきっかけで自分も消防隊員を目指すなんてことはなかったが、本当に感謝している。

 

最近バイトで品出しの際にふとカラーボールを見てみたら、容器にしっかりと「取り出し口に指を入れないでください」と書かれていた。きっとラムネ数粒に固執する卑しい子供は僕だけじゃないのだと思った。

 

 

 

 

 

・最近資格の勉強をしているが思ったようにあまり進まない。

眠気覚ましにとブログを書いたが余計に眠くなってきた。

もう少し頑張ろう。

・体の作りが異常なのかどうかは分からないが、僕は机に突っ伏して寝るとゲップが出そうで出なくなりとても苦しい思いをする。まるでミルクを飲んだ後のゲップが出ない赤ちゃんのように寝ることも座ることも許されない状況に陥るのだが、大抵立ち上がって数歩歩くと治る。それでも胃に空気が溜まってるような感じは抜けず、下手したら一日中ポケモンドガースみたいな状態になる。大きい方を出そうにも実が出てこないのだ、空気に邪魔をされて。

 

大きい方といえば、誰しも一回や二回漏らしたことがあるだろう。僕は覚えてる限りで二回ある。一回目は幼稚園の時。ブランコで遊んでいたら急にこみ上げてきた。果たして5,6歳の子供が戦国時代の敵将が籠城している城門を攻める足軽の如く激しく押し寄せる便意に耐えられるほどの尻筋を持っているだろうか?否、持っているはずがない。必死にトイレまで走ったが間に合わなかった。途中で走るのは諦めて泣きつつ漏らした記憶はあるのだが、そこから先は覚えていない。

二回目は小学校くらいの時。小学校ではなかなかトイレというものに行きづらかった。今でこそ大学は高い設備費を払っているだけあってそこでお弁当を食べられるくらいとても快適な空間になっているが、小学校のトイレは汚い・臭い・暗いとまさに3Kの最悪のスペース。そんなところで出せるわけがない。いや、出したくない。それに子供ながらに変なプライドもあって出すことなんて出来なかった。さて、5時間目が終わり、寄せては返す波の如く押し寄せる便意に耐えつつも必死に家路についていた。歩くことは許されない、何故なら早く帰らないと漏らしてしまうからだ。しかし走ることも許されない、何故なら走ると衝撃で漏らしてしまうからだ。この絶望的な状況で残された道は腹の爆弾を刺激せず波が引いている間には小走りをし、押し寄せてる間は立ち止まりただゆっくりとその波を返すだけだった。無心でただひたすらに家を目指し、やっと家の鍵を開けトイレに駆け込んだ。終わった、やっと全てが終わったと思った。いや、終わっていなかった。ズボンとパンツを下した瞬間に敵兵が本陣に押し寄せてきた。全精力を振り絞って必死に抑えていた城門も下校中に増援された敵兵と破城槌のような強力な武器では無力だった。

それ以降のことは記憶にない。確か遠くのゴミ捨て場に行ったような気がする。

 

人間極限のショックを受けると頭真っ白になって記憶が吹っ飛ぶっていうお話。

 

 

 

・明後日から4泊5日で沖縄に旅行する。

取りあえず今やる予定なのは、海外に単身赴任を命じられた夫と空港まで見送りに来た妻という設定の演技を涙を流すくらい本気でやってそれを誰かにビデオに撮ってもらうこと。