日記

 ・俺の将来の夢はね、一応あることにはあるんよ。まぁ所詮夢なんだけどね。

 

俺は中学の頃から凄く捻くれてて、道徳の時間とか国語の時間とかが凄くムカつくことばかりだった。道徳なら気持ちを考えましょうとか、そういう類のものが大嫌いだった。

気持ちを考えましょうとかいう授業が原因で先生に呼び出されたこともあった。

あることに対してそれが常識だ非常識だ、普通だ普通でない、悪い悪くないと教えられてきたが俺にはよくわからなかった。

 

例えば「いじめはやめましょう悪いことです」という教えに対して明確且つ論理的な理由も与えられず、ただ「虐められた人の気持ちになって考えてみましょう」などという人の良心に問いかけるような理由でいじめ=悪だと教えられた。

自然界では弱い者が淘汰されるのが摂理なのになぜ?ピラニアは弱った仲間を食べるのに人間は自分より弱い存在を淘汰することはいけないことなの?

誰も俺に教えてはくれなかった。

 

例えば「知的障碍者*1の人はなりたくてなったわけではありません。差別することなく優しく接しましょう。」という教えに対しても理由を教えてもらうことはなかったし、差別していいんじゃないか?という考えは勿論押しつぶされた。

知的障碍者である分手当や障碍者雇用枠があったり、一種の差別化が図られてるのにその他(見た目やオツム)で差別をすることはいけないことなの?出生前診断で産む前に障害児か否かが分かるのに、わざわざ進化論的に言えば劣っている存在がこの世にあるのに、それを淘汰してはいけないの?

誰も教えてくれなかったし、そう考えることすら授業では許されなかった。

 

例えば「人を殺すことは悪いことです。」なんて教えも「法律で禁止されているから、自分がされたら嫌だから」なんて理由でしか耳に入ってこなかった。

歴史的に殺人を許容したり美化していた社会もあったのに?親が殺されたその仇討とか、遭難した雪山で自分が生きるために仕方なく、という殺人も普通の殺人と同じなの?違うとしたら何が違う?本当にそれも悪いことなの?

なーんてこともだーれも教えてくれなかった。

 

 

別に例えの話の自分の疑問が合ってる間違ってるという話をしたいわけじゃない。

中学からずっと疑問に思っていたのは、そういう倫理的に正しいとされる考え方があるならば逆に倫理的に間違ってる考え方も存在するはずなのに、なぜ後者は見向きもされずに蓋をされるのかということ。

間違ってると思われてることが実は正しいことだってあるのに。

何故それについて考えもせず見向きもせず間違ってると言うのかということ。

 

 

 

俺の夢は小中学生、ちょうど反抗期で自分が今まで教えられた常識が本当に正しいのか疑問に思う過程にあるいわゆる思春期の子供たちに希望を与える仕事がしたかった。

悩んだとき、大人はいつだって変な凝り固まった常識で話をしてくるけど、その常識に囚われず共に考えてあげられる、そんな職業をしたかった。

 

迷いの最中にあるのに迷わせず答えを導くのはただの洗脳と一緒だと思うんよね。

迷いの最中にあって、でも敢えてもっと迷って悩んで行きついた答えがたとえ間違っててもこれからの自分の人生の大きな武器になると思うんよね。

それを自分で導くことを手伝える仕事がしたかった。

 

 

まぁ、無理よ。

 

でもほんと哲学科に入ってよかったな~って思うのは、そういう話が演習で出来たこと。

オレオレ詐欺は実際は善いことをしてるとか、そういう話ができたのってすごい楽しかったなぁって思う。

 

 

 

・ほんとそろそろ真剣に就活考えないと…

 どうしよ…なりたいもんないよ…

 

 

*1:ここでは先天的な知的障害とする