日記

悪事

・前にブログで「人間の幸運は限度が決まってる~」的なことを書いた気がするが、ふと今日バイト中に似たようなことを思ったので書こうと思う。

 

・生きていると良いこともあれば悪いことがある。とは人間誰しも思ったことはあるだろう。どんな些細なことでも大きなことでも、ずっと幸運が続くことはほとんど無いしその逆もまた無い。

なぜか?それは幸運と不運は常に一定のバランスが保たれていると考えることはできないだろうか。個人基準ではなく世界全体で不運と幸運を見たとき、MAX不運状態を0,MAX幸運状態を100とするならば、必ず中間点の50になるように世界は動く。

そもそも幸運は単体としては成り立たない。誰かの不運の上に幸運は成り立つ。

良く考えてみれば生活のすべてにおいてそう言える。

大きなことを言ってしまえば例えば僕が100万円拾ってネコババしたとき、落とした人間は不幸であるが僕はその不幸の上に100万円を手に入れたという幸運を手に入れる。

他に例えればギャンブル。全員が全員勝ってしまったらギャンブルとして成り立たたず、ただの慈善事業で金を配ることになってしまう。負ける大多数の人間が居て初めて勝つ人間が生まれる。

例えば受験。合格者は一定数と決まっているのだから、不合格になる人間が居てその上に合格者が生まれる。

例えばドナー死後の臓器移植手術。ドナーの遺族は悲しむことになるが、レシピエントとその家族は喜ぶことになる。

あくまでも一例に過ぎないが、上に見る限り人間は誰かの溜息・涙・絶望の上に幸福・幸運を享受する。これらの例に見ると、誰かの悲しみが世界の運基準値50を-にし、その埋め合わせのために運基準値を50に戻すために+の幸運を享受する。

つまり、先に挙げた世界の運を50の基準値とする考え方ならば、もし一時的に基準値の50を下回った時は当然幸運でその埋め合わせをしなければならないし、もし一時的に基準値の50を上回った時には当然に不運で幸運を削らなければならない。

 

そう考えると、当然疑問が湧く。良いことをすればいずれ自分に返ってくるという考え方は間違いなのではないか?と。

例えば駅の階段で上れずに困っているおばあさんが居た場合、二つのパターンを考える。Aのパターンはおばあさんを助けるがBのパターンはおばあさんを助けないパターン。Aの場合、助けられたおばあさんは幸運を享受したことになり、どんなに少なくても当然に基準値50に+の影響を与える。だが逆にBの場合で仮に階段を上り切れず落っこちて死んでしまったとする。運が悪かった。それはつまり基準値50に-の影響を与える。

AとBの2パターンを見たとき倫理的に当然にするべきなのはAだろうが、自分が幸運を享受するためならばBを選択するべきだ。何故ならおばあさんが不運になった分だけ埋め合わせのために幸運がどこかの誰かに起こるからだ。

言ってしまえば悪いことを率先して行い、涙する不運な人間をたくさん作った方が幸運が舞い込んでくるのではないだろうかという考えだ。

実際、ズルをしたり悪いことをしている奴のほうが幸運を享受し、馬鹿正直に生きる馬鹿が泣きを見るのが世界の理だと思う。ズルをし、悪事を働き泣く人間を作れば作るほど幸運基準に-の影響を与え、その-を+にするために埋め合わせの幸運を手に入れる。馬鹿正直な人間は幸運な笑う人間を増やし、幸運基準に+の影響を与え、結局その+を-にするために不運を手にする。

馬鹿正直な人間が最後に笑うのはお伽話の世界だ。情けは人の為ならずとは良くいうが、自分に跳ね返ってくるのは何も良いことだけではない。

 

世界中の存在全てが幸運にならないのは、この基準値があるからだと思う。

だが逆に、世界中の存在全てが不運にならないこともこの基準値のおかげなのかもしれない。

幸福管理事務局とか絶対ありそうだよね。

そんなオカルトありえませんってか。