幸運とは?
・タイムセールで残り一つの商品をたまたま買えたり、ギャンブルで勝ったり、席替えで好きな子の隣の席になったり、受験に成功したり、成功率の低い手術が成功したり、事の大小に関わらず人はよく「運が良かった・悪かった」「ツイてた・ツイてなかった」と言う。*1
基本的に人は何かしらの出来事が起こった時に運が良かった悪かったと考えるが、運とは実はそういうものではないと考える。
人の運の総量は決まっているとは良くいうが、まさにその通りだと思う。
更に、Aさんは生まれたときに1,000の幸運を与えられるが、Bさんは10,000の幸運を与えられたりと人によってもまちまちだ。
運の使い道については、確かにさっき書いたように何かしら自分が偶然的な幸福を感じるために幸運は使われるように思えるが、実は幸福に感じないところでも運は使われていると思う。
例えば俺が家から学校までの往復を小学校1年生から現大学3年まで計10年以上してきたが、車に轢かれたりだとか犬に追いかけられたりだとか不審者に誘拐されたりだとかそういう経験はない。
また、剣道もやっていたが幸いにして骨折などの大きな怪我も無かったし、家に強盗が入ったとか火事にあったとか隕石が落ちてきたとかということもない。
つまり、人の幸運というのは単純に何かしら自分に目に見える形で利益をもたらすことのみならず、危機回避にも使われていると考えるのが普通ではないだろうか。
もし仮に人生で1,000の幸運しか持たない80歳まで寿命があるAさんが20歳の時ギャンブルで一生かかっても稼げないような額を得たとする。
一見すると幸運に見えるが、実はそこで持ち運が900使われてしまい、残りの運は100しか残っておらず、80歳まで危機回避の運が100しかないため様々な災難に見舞われてしまうという考え方もできるだろう。
現に宝くじで高額当選後に失踪や殺害されたりなど聞かない話ではない。
しかし、そこでふと疑問が起こる。
「自分では意識して運を使うことなんて出来ないぞ?いつどこで使われてるかも分からないし、危機回避で運が使えなくなるならくだらないことで運を使いたくない!じゃあ一体運っていつどうしてどうやって使われるんだろう?」と
そう疑問が起こると"決定論・宿命論"が運に対する答えの一つなのではないだろうか。
スピノザの本来の解釈とは異なるが、結局人間は自分の意志で幸運を手に入れたように見えるが、結局のところそれは投げられた小石と同じで、自由意思に基づいて決めた行為の結果ではなく予め定まっていた運が何かしら超越的存在によってあらかじめ定められていた通りに使われていたと考えるべきなのではないか。
第一、運が自由に使えたら俺今頃死んでるよきっと。
今日のブログは幸運があまりない俺の負け犬ブログじゃないよ。ほんとだよ?
ちなみに、一番ツイテタな~って思った出来事は高2か高1のころ高校近くのお菓子の仁木が閉店するから店の商品全品半額になってて、1万円相当の大量のお菓子が半値で買えたことかな。
・日中暑いけど夜は風が気持ちいい丁度いい季節になった。
この時期の風の匂いが一番好き。
*1:今回はあくまで運というものの存在があるものだと仮定する。